昭和52年10月24日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 昨日福岡から時々参ってくる若い事業家の方ですけれども、この頃事業があまり思わしくない。それで思い切ってここで借金でもして大きくしなければ採算が取れない。でなかったら、もちっとこじんまりに整理をしたらよいと思うが、どちらを取ったら良いだろうかという、お伺いに見えました。それで私が「小さくすることもいけないし、というてまた借金をして、それを大きくすると言う事もいけない。とにかく今のままじゃ」と。仕事は今のままだけれども、信心が今のままではいけない。
 どちらにしてもそこにおかげが受けられる、という確信が出来れるところから、小さくするならする、こじんまりするならする。又は大きくするならば大きくしなければいけない。そこで「どうかね、この頃大祓信行は出来とるか」と私が申しましたら、「それが出来たり出来なかったりだ」とこういうわけです。もうお道の信心はね、話を聞いて詳しゅうなるだけでも決まりません。それを私は行じて行かなければ、有難いものに触れられないと思うんです。
 だから本気で私が大祓信行をせよとこう、その大祓信行がです。変えることなくもうそれを修行と思うて、それを続き貫かせて頂くと言う事が、信心辛抱なんだ。「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん」と。大祓信行始めさして頂いて、どうか用事でなかなか出来なっかたり。様々な問題はある。今日はどうも気分が乗らないと言う様なこともあろう。まあそういう上にも、雨風というものを感じる様な事があろうけれども、それを行じ貫くと言う事なんだ。
 行じ貫くところから神様を頂くことが出来る。有難いものに触れることが出来る。その有難い心で、商売なら商売のことを願うから、何ともなしにおかげを頂いてくる。そこから、開けてくるものでなからなければいけないというわけであります。確かに金光様の御信心はね行ずること。しかもそれを辛抱し貫くことという。そこんところの信心の節度がキチッと出来なければ、何時まで経っても有難いものに触れられません。御取次を頂いてお願いをする。おかげを頂いた。
 おかげで集金が寄った。おかげで病気が治ったと言うだけに止まる信心では、話を聞くことが有難い。けれども、有難いだけではなくて、その話を行じて、おかげを受けて有難いでなからなければ、本当なもんじゃないと言う事になるのです。ここでは一切の出来事、私の上に起きてくる問題、それ一切を神様の御働きとして合掌して受けて行く。全ての事に御の字を付けて、御事柄として頂いて行くと言う事を強調致します。
 ところがなかなかそれを御の字を付けて頂くと言う事が、噛んで砕くようにして御教えを頂きますから、それが神愛だと。または神様がおかげを下さろうとする御神慮と言う事は判るけれども、そのことに合掌して受けると言う事は非常に難しい。起きてくる問題が嫌な問題もある。損な問題もある。または痛い痒い事もある。それが神様の私に下さる修行であったり、おかげを下さろうとする働きであったりと。
 理屈を聞くと判ります。判りますけれどもそれを合掌して受けて行けると言う事は、なかなか以て難しいことである。だから難しい事であるからと言うて、それをなおざりにしては出来ない。私は思うのにそれを有難いと受け切れると言う事がね、徳を受けなければ判らないと思う。言うならば「肉眼をおいて心眼を開け」と仰る。心の眼を開かなければ、お礼は言えないと思う。やはりこれがおかげであると判っておっても、痛いならば苦しいならば、自分が分が悪いところに立たせられたらです。
 やはりそこへ一つの文句も言いたくなる。不平不足も出るところであるけれども、その不平不足と言う様な心をです。私はあの黙って治めて行くと言う生き方で行かなければならないと思う。これは皆さん方どうでも行じて、行じ貫かして頂かなければならないことですから、それを私は「信心辛抱」と。今日の御理解で言うと「辛抱」と。これはお礼を言わなければならないことだと判っておるけれども、なかなか痛かったり苦しかったりしたんでは、お礼が言えない。
 けれどもお礼が言えないでは、なおざりにすることになる。そこでそれがお礼の言えれる工夫を様々に懲らさしてもらわなければならない。困った問題が起きた。それはやはり困った問題である。けれどもそれを本当に「いやあ神様のご都合に違いはない。これはもう本当に神愛だ」と判るまでにはです。それを黙って治めるという信心が必要なんです。黙って治めるということの言うなら範囲をずっと広げなければいけない。そしてそのことに対してお礼が言えれると言う事はです。
 私は信心辛抱させて、「信心辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」とおっしゃるのですから、そういう事柄を合掌して受けて行くという。合掌して受けて行くということは信心辛抱の時なんです。そして辛抱の暁にです。おかげであったと言う事が感じられるようになった時には、「その辛抱こそ身に徳を受ける修行」と仰るが、成程あの黙って治めておるあの時に、徳というものはああいう時に受けられるもんだという体験が出来て参ります。そういう体験が出来て参りますとです。
 それが重なり重なって参りますと、徳を受けて行くという、身に徳がついて行く喜びというものが強くなりますから、おかげを頂いて行くんです。この辺の所を愈々大事にして行かなきゃいけない。「信心辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と。お参りをするのに雨が降る、風が吹く、そこを辛抱し貫いてお参りをする。もうそういう意味合いでなら、もう直ぐ様、「はあお参りしておって良かった。
 これでしるしかった」とか、「今日はご無礼しよう」とかと言うたら、いつまでもご無礼の心が心に残ってすっきりしない。けどもそこを一辛抱し貫いた向こうに、お参りして良かったという、良かったというその心がもうお徳を受けて行く修行なんです。だからこれはお参りをする、雨風が吹くということだけではなくて、私共の上に起きてくる色々な問題をです。御の字を付けて頂く。御事柄として頂くということもやはりそうです。頂けないところをそれを頂く稽古をする。
 そしてなら黙って治める。黙って治めておって良かった。言わんでおって良かった。それが徳になるのである。身に徳を受ける修行なんである。そういう信心が私は本当に身に付かなければです。何をしても本当のおかげに、言わば仕事なら仕事の上に、軌道に乗るということにはなって来ない。そういう信心が身に付いてしまってからならば、大きくすることも小さくすることもいいでしょう。
 それは昨日、御取次さして頂いた方に対することですけれども、そういう生き方が自分のものになってしまうまでが、信心辛抱です。もう金光様の御信心は話を聞いて、そしてそれを行じて行くという以外にはない。行じて行くという上には、やはり辛抱が必要である。その辛抱の向こうに、雨が降るから風が吹くからと言うて、まあご無礼をせんで済んで良かった。雨を侵して風を侵して、お参りをさせて頂いたことが、良かったと言う心が生まれてくる。
 そういう「おかげを頂いた。良かった」という心の積み重ねが信心辛抱の徳になるのだ。徳を受けるとです。人が受けられなかったこと。御の字を付けて受けられなかったことに、御の字が付けて受けられるようになり、又は御事柄としてそれを受けて行く事が出来るようになり、言わば黙って治めて行く事が有難いことだと言う事が判ってくる。この体験がまず出来て、いわゆる身に徳を受ける修行が本気で出来れるおかげを頂いたその先にすべてがある。おかげのすべてが。
 だからそこんところを頂かずして、そのおかげを受けたというのは、それは脆いおかげである。おかげだけに止まるところのおかげ。身に徳を受ける修行をさして頂きながら頂くおかげが堅実に、確実になってくると言う所をです。自分のものにして行かなければならないと思う。「心経や大祓を上げるのに、わざわざ節を付けたり、大きな声をせんでもええ、人にものを言うとおりに拝め」と。
 私は今日皆さんに聞いて頂いた所は、と言う所を踏んまえての信心でないと、皆言わば節を付けたり又は大声を上げたり、と言う様な結果に終わってしまうと思うです。そこに信心というものが立脚点である。その信心なしに「お参りすりゃ有難い話が頂けれる」とか「御取次を頂いておかげを頂く」とかと言うて「有難い勿体ない」と言うておるけども、それは真に有難いのでない証拠に、もう次に困った事が起こってくると。
 もう不平不足になって来たり、それをおかげをおかげであると感じきらなくなってくるのですから「神に嘘を言うも同然」と言う事になるのです。「はぁおかげを頂いて有難かった」と言うて、なら一生懸命お参りもする、拝みもしておったというのもです。あれは神に嘘を言う様な信心であったり、拝み方であったと言う事になるでしょう。だから本当に信心というのは、身を以て教えを行ずる事。そしてそれを辛抱し貫く事。そして辛抱する事によって「あぁ辛抱し貫いて良かった」と思う心が徳になっておる事。
 それが積もり積もって、辛抱の徳を受ける事。徳が受けてからの神様に向かう姿勢と、言うならば拝み方が変わってくる。実のある拝み方と言う事になりましょうか。「神に嘘を言うも同然」と言った様な信心からです。お互い脱却して愈々身に付いた信心、身に付いた信心辛抱。そこから信心辛抱の徳が受けられる。徳を受けると今まで合掌して受けられなかった、御の字を付けられなかった事柄に、御の字を付けさして頂く。
 こんなにして神様がご指導下さるんだ、鍛えて下さるんだと有難いと言う心で、全ての事に御の字を付けられる事になった時、信心が本当なものになる。そこから生まれてくる軌道。それが言うならば、すべての軌道に乗る事だと。そこまで行かずして「有難いとか勿体ない」とか言っておるのは先ずは神に嘘を言うておるような有難さだ、勿体なさだと言う事になるわけですね。
   どうぞ。